あの世に引き込まれる

ヨコハマ買出し紀行、というマンガがある。途中の巻までヘソオーさんが買って家にあったはずだ。何度読んでもあの世の話にしか見えない、悲しい印象のマンガであった。
昨日(おとといか)買ったCD「白虎野」の白虎野という曲が、これまた、あの世の風景にしか感じられない曲であった。

ママの価値

頭では世間一般の母親業(出産など)にそんなにたいそうなイメージを持っていたわけではない。
実生活で、私には自分が「守ってもらう」という事への嫌悪感がある。誰かが誰かを「守る」と口に出した途端、守る宣言をした側の“思い入れ”(或いはプレッシャー)が守られる側の自我を壊す、という経験をイヤというほどしてきたからである。例)実家の親

そうありながらも、実の母親とはかけ離れた存在の「架空のママ」を心に抱いていた自分である。最も恐ろしい部分は、自分が虐待を受けたとき守ってもらえなかったという無念を、その架空のママに託し、依存し続けた所である。
架空のママは実体がないため一見何の得も害もないようだが、私の誇りを奪う(、とまではいかなくても惑わせる)存在と化していたようである。

ママはママ自身の身を守ってくださいよ。(私の実の母親へ最も言いたい言葉だ。)(すでに手紙では言ったが、伝わったかどうか微妙だ)

お祝い

失恋の祝いにケーキとCD買った。
いい年してママが恋しいって現象がべつに自分だけに限ったものじゃないのは知っている。
帰り道にヘソオーさんと「私がママよー」「私もママよー」とママごっこをしているうちになんだかママの価値が下がってしまったような気がする。

失恋?

私が今味わっている気分はとても失恋と似ている気がする。なんに恋していたんだろう。
20歳くらいの頃、サークルは私の心の拠り所で、サークルの人間関係が自分のおかしな、調子の悪い部分(過食したり)を客観視させたり調整してくれているのだと思っていた。(いや、してくれなかったけど。私はお得意の想像力で、そういう自我を自分の中に一つ作ったのだ。)
恋をしていたとしたら私はサークルに恋をしてたのかもなあ。家が欲しかったから、部員を家族に見立てて。
私の真剣な家族遊びが、私一人だけのものだった(片思いだった)って解った。ようやく、この年になって、部員の家族を目の当たりにしたところで。

そしてその失恋の内容ときたら。成長期以降の大人の人恋しさではない、母恋し、のようなものである事に愕然。

こりゃあかんわ!いやいやいけなくないいけなくない。そうやって乗り切ったってこと。架空の母に恋して乗り切ったのよ私は。

カムアウト

なんかアレコレ悩んで書いたり消したりして自分の拠るところをまた再確認したりした。
やっぱり、自分がサバイバーだという認識が自分にとってどれだけ大きい事か。サバイバーでない自分なんてコーヒー豆のないコーヒーみたいなもんよ。肉のないしゃぶしゃぶみたいなもんよ。サバイバーでない自分に誠意なんて宿らない。だから本当に本来は、自己紹介の一番上に「サバイバー」って持ってきたい。

友達にカムアウトしていないということが辛いのだったら、このサイトを教えればいいのよ。改めて拒絶されるかもしれないなんて考えたって仕方がないのよ*1。それはその人の自由さ。サバイバーはすでにちゃんと生き残った者なんだから、可哀想がられる必要は無いんだ。皆さん、可哀想がる必要がないんですよ。

*1:すでに何度か拒絶には遭っていたりもするが、サバイバーと自覚する以前の話なのでもうちょっと粘ってみる。友達だというのなら。

存分に

この2日くらい、一人でじーっと腰をすえてキーボードに向って存分に悩んだ。ろくに茶も飲まず掃除洗濯もせず炊事も仕事もそこそこにしてまで、である。悩んだ結果一応の納得がいったのでスッキリ。しかしこういう作業って、いったい何なんだ。