価値観

ママ=育てる存在としての親、への価値観が、自分は急騰していた。

自分の親が壊れている反動で、頭の中で世間一般的な親のよいイメージが一人歩きしたのである。

さて最近自分はもう一個やらかしていた、境遇を分かち合う仲間への価値観である。私は自分の持つ体験の苦しさへの反動で、体験を認め合えるのが仲間であると考え仲間を探した。
実際には、体験を認め合うだけでは仲間ではない。時間と空気を共有して、相手を知らなければならない。

仲間を求めて急く気持ちは、このブログを始める前からあった。
急く気持ちに疑問を抱いたのは、似た体験のその人(仮にXさん)と私の頭の中にある「仲間像」に、ズレを感じたときからである。

私の頭の中のXさんは違う印象の人であった。
Xさんの語る私の人物像もまた、私と別人のようであった。

ズレを感じたなら、正しい像に軌道修正しなければならないのだが、仲間を理想化して急く気持ちが強くければ強いほど、それが難しくなる。(注:私が難しかった、ということしか知り得ないが。)
また環境的にも、ネット中心で築く関係では齟齬や不平等が修正しにくいと感じた。*1


ちなみに、私が大学時代に仲間と思っていた人々は、時間と空気を共有したが、体験を認めあってはいない。これからどうなるかは、わからない。

これは飽くまでも、私の世界観の話である。

あ、サバイバーと名乗るのをやめてみました。否定ではなく、私がやめてみたのです。

*1:このへん、友人は「受け皿」と表現していた。まあ、ネット以外のリアル人間関係だと、齟齬不平等へのありえない展開が待っていることも少なくないんですが。たとえば、私の受け皿には以前両親と兄が勝手に乗っかってきて、私の皿がえらいことになっても立ち退きませんでした。容量オーバーの確信的暴力です。私はいまだに、私の皿の上の幻影に悩まされます