サバイブのこと(5)

高校は仮死状態でもなんとか卒業した。だが大学受験は上手くいかなかった。上手くいかなかったというのは・・・


私は高校三年(多分夏前くらい。良く覚えていない)になってからいきなり、志望方向を普通教科ではなく専門色が強い美術系に決めた。たぶん、周囲がどんどん勉強を過熱させていくのに死にかけで同じものをこなしていくのは無理、と判断したのだろう。しかしそれなりの特色のある大学に通うのでないと遠方・一人暮らしは叶わない。じゃあ美術が好きだから美大目指そう・・と姑息な手段に出たのだ。


私は美術部員でもなかったし美大受験ってどうするのかわからなかったが、美術教師はよその学校と掛け持ちだというくらいの学校なので、教師も美大受験についてはこれといったアドバイスができず、私はすんなり「どこにも属さない受験をする生徒(腫れ物扱い)」になった。 さすがにこれで受験が成功するとは今振り返っても思えないのだが、当時の自分のエネルギーのなさを思うとあまり責められないや。まあ、生き延びてください、としか声をかけられない。ああ、そういう意味の腫れ物扱いもあったのかもしれないなあ。確かめる術もないけど。


ついでに思い出したけど、私はいつもドラえもんの「石ころ帽子」がほしかった!もっともっと影をうすくしたかったのだ。最近は欲しいと思わなくなったなあ。


で、受験の結果だが、
志望の美大(いずれも遠方、一人暮らしができる)2つは落ちて、教育学部の美術科(地元)には受かった。ああこれでは浪人もできません。
何が何でも浪人して他都道府県の予備校(地元は田舎なので美大用のコースなどない)で一年美大受験の準備をするとか、すればよかったかな。でも父親から金のプレッシャーも随分もらっていたような気がするので(←良く覚えていないけど。でもそうでなくても普段から父は金の話では恐い。「虐待・家庭のこと」参照*1)完遂するには幾つも壁を乗り越えなければならなかっただろう。私は壁を作るようなことはしなかった。


いつからそうだったかはこれまた覚えていないんだけど(高校時代は空想の世界に生きていたので記憶に靄がかかっているため)実家には母の父、私にとっては祖父が生活するようになっていて、たしか私が受験をする頃はもう寝たきりで、母が看病していた。祖父はちょうど受験の終わった頃に亡くなった。なんだかいろんなもの、いままでの自分に纏わるあらゆるもの、大切にしていないものや大切にできたかもしれないものが一斉に無くなったと感じた3月だった。
あの3月は、私はこの現実の世界で、意思も、力も、金も、家族も、自分の体も、なーんも大切にしているものが無いなあ、と、初めて自覚した時だったと思う。これは同級生の輝きと己を比べたとき自覚した無力感とは異なっていて、それまでは生き延びるために死んでいるのだという誇りがあったけれど、自我の死を顕示していた相手、それはたとえば父親、家、教師、などへの体裁のことなのだが、それらは私が懸命に死を顕示しなければならないほど大切なのか?いや、大切じゃないよな〓・・・、そして生き延びるためといいながらドンドン自我の優先順を落としていって、今じゃ空想の世界だけ・・・って、それは自分を大切にしてるというのか?いや、大切にしていないよな〓・・・。と気付いた、というそれはそれは悔しい自覚だった。


そして私は地元の大学に通い始める。

*1:過去の日記です。父が金で恐いのは、父にとって金が切り札だったから