加害者のこと・続き

葬式の帰りに、葬儀中に加害者が無邪気に話しかけてきたことを両親に訴えた。この時点で私が受けた性虐待を両親は知らないことになっているので、加害者の無神経さがいかほどのものであるかきちんと訴える事は出来なかったが、それでも兄を嫌いで一人暮らしをはじめ、「家に兄がいるから」と言って寄り付かない娘の訴えを両親がまともに受け止められなかったのはなぜか。両親が「我々のほうがより被害者である」と無意識に甘えていたからに他ならない。暴力の被害者であり、今も被害に遭い続けている、その苦しみの中にいるだけでなにか努力しているかのような錯覚。本当は長男に向き合う手段を失っているだけなのだ。


このような両親の閉鎖的な意識が長男の社会性を阻害する。思えば昔、性虐待の一端を父が知っても追求や阻止に至らなかったのは、そのとき父もすでに被害者だったからであろう。そして手に負えないのにその事実を認める勇気もなくて、抱え込んで太らせたのだ。怖いからと餌を与え続けて、両親が死んで餌が切れたら加害者も自動的に死ぬとでもいうのだろうか。


暴力の被害を受けたなら、自分を被害者だと認める事は大事なことだ。私の両親特に父親は、被害者という境遇を恥ずべき事と差別していたから、いつまでも自分を被害者と認められないのだ。


そして長男は両親の甘えや矛盾を見事に受けて体現している。彼は年は重ねても大人ではない。家の外に出ようにも、思春期以降生きるための衣食住すべてを父親に過剰に与えられ続けているので(そして父の与えっぷりというのは誰にも口を挟ませない鬼気迫るものがある。)、家の外に根を伸ばせないのである。そういう状況は生命力に反するので自我が苦しいはずなのだが、加害者は果たして今も苦しんでいるだろうか? 暴力に依存し続けた加害者の事だから、とっくに諦めているような気がする。加害者が暴力に依存し続けた事だけは全く加害者自身の罪だが、家で父に栄養を与えられ続ける限りその事実に気が付かなくて済むだろう。