未練じゃなくて

私は私の加害者を永久に糾弾するぞ。・・・と決めたところでクリアになった感情がある。愛着もそう。

手元に残っている両親を思い出させるもの、たとえば昔貰ったマフラーや、この間送られてきた海産物、究極をいえば自分自身の体、などを見る度に自分の身に残る愛着を呼び起こさせられる。私は両親に愛着を持っているが、私の正当な子供としての愛着は、面従腹背*1の形に歪められている。

愛着とは私が苦手とし時に憎んでもいた情というやつだ。それさえなければ楽だったと願わずにはいられないもの。私と両親との関係は私が嘘をつき媚び暴力に耐える形で長い間保たれてきたが、押してそれをさせたのは私に備わった子供としての愛着で、自分にのみ責任を求める時私は愛着を憎んだのだ。『私は、親からの愛情を過分に求めすぎるからいけないのだ、完璧な愛情などありえない。自分に与えられたもので満足するべきである』、と。でも違う。愛着は子供の生きる力だ。子供に愛着の責任を自己に求めさせる力とは、親から子供に与えられた暴力だ。情があるから私が辛い思いをしたのではない。両親が情を悪用し私を苦しめただけである。そして歪み方一つ一つに、私が生き延びた証があるのだ。

自分の歪んだ愛着を眺めるたびに両親の暴力を想い、私は両親を憎悪する。これは皮肉ではなく、矛盾もしない。両親に対する正当な愛情の形だ。

ところで、両親が私との愛情関係を歪ませたからって、私が歪んだ関係しか知らず他の人ともそのような関係しか築けないのかというと、そうではない。そんなに簡単に応用出来るような楽をしては、生き残れない。自分の歪みを自覚する者が死活問題である“よりよい人間関係”を模索しない訳が無いのだ。

svantnさんがhttp://d.hatena.ne.jp/svantn/20051225にて劣等コンプレックス・癒しについて言及されています。

*1:細かく言えば、父は女子に服従を、母は娘に面従腹背を強いたので。余談だが、高校のときの担任の教師は北国の人間が中央政権に面従腹背しなければ生き残れなかった事実を複雑に憎んでいて、生徒にもその矛先を向け、生徒の私的あるいは学校内の公的な面従腹背までもをホームルームの槍玉に挙げる困った人であった。あ、彼が「蝦夷」を差別用語に使っていた事まで思い出した。