ブログで虐待のことを書く理由

虐待は私にとって人格を決定する一大事だったから、自分が何か行動を起こしたり発言したりするときには必ず、虐待のことを考えてしまう。本当に人生の大半を、虐待のことばかり考えてすごしてきたし、これからも考え続けるだろう。私は忌まわしい記憶が一番大切な記憶であることをサバイブしていかなければならない。それは虐待の体験を加害者からは独立した、私だけの個人体験とすることから始まると思う。虐待経験は私を決定したが、虐待加害者が私を決定したわけではない、という気概のようなもの。


普段からこんなことを考えているものだから、私が自己紹介するなら「性虐待サバイバーです」というのが最も素直で簡潔なのだけれど、普通の(サバイバー交流を目的としない)自己紹介のときにいきなり「わたし性虐待サバイバーで」というのは疲れる。親しくなってすら、いい辛い。それは、カムアウトが弱者宣言になる性格を持つから。(実際弱者である時間が、虐待サバイバーには、あるし。)自己紹介がいきなり福祉問題になるかもしれない不安。

福祉を考えるのも大切だけど、それよりも先に、サバイブすることを分かちあいたい。そういう願いから、いろいろ考えて、ブログに書きはじめました。

(こういうことを考えていつも念頭にあるのが、虐待サバイバーととう括りの中の人と外の人に、どれほどの違いがあるのか?ということ。辛い記憶というものはもっていない人を探すほうが難しいので、誰しもがサバイバーだと思うんだけど、なぜかシェアリングが容易ではない。たんに私の性格のせいかもしれないし、そうではないかもしれない。それを試す意味でも、ブログ。)