(珍)無類のファンタジー好きとして

このあいだ、友人の厚意(おごり)で最近上映している「高慢と偏見」を見てきた。今日は1940年制作の「高慢と偏見」をレンタルしてきたものを見た。実はオースティンの原作もちょいファンである。

この話は、恋愛・コメディ・推理がゆるーく絡まった、楽ーで、なんでもなーい、内容だと思う。映画では、画面内にニワトリやガチョウがわらわら歩いていたり、馬がじっと止まっているところに糞が落ちていたりする描写があってたまらニャイ!

また、ガヤガヤかつアッケラカンとした家庭の話というのがすでに私にとってはファンタジーである。家族ドラマが海外などの異文化ものであれば、より虚構度が高まり、安心して見れる。姉妹が同じベッドで「あんたは誰が好き?」とか言いながら眠りにつくのなんか、たまらニャイ!

高慢と偏見」映画の新しいほうと旧いほうを見比べたところ、新しいほうが風景や衣装がに説得力があり、旧いほうがコメディ色が強くて楽チン度が高かった。


こういった高慢と偏見若草物語といった「家族ファンタジー」が女の子向けであるとされる理由に、女の子の学習する家庭像の多くが女の子本人にとってファンタジーでしかないという実情が絡んでないか。なおかつファンタジーがウケテルということは、実際の家庭が女の子にとってちっともいいもんじゃないって事の証拠になりはしないか。つか、私がそういう理由でウケてんのだけど。