葬式にて

おととい兄の葬式の夢を見た。自分で、「これは重要な夢だ」と思いながら見た夢だった。*1 意識の変化を客観的に感じ取れた象徴的な夢だったからである。


葬儀の終わった後だと思う。席に残っていたのは私と両親だけだった。私はトラウマを感じつつ兄の過去の写真をパラパラと繰り、兄という人の風貌が自分の記憶する姿よりはるかに弱いことに内心驚愕した。「弱い」と表現するのは、軽い細い儚いイメージのことではない。面倒くさがられ煙たがられ、厭がられる者の弱さだ。私は兄の遺体には全く関心がなかったが、写真には反応した。私は両親に「この人は、あなたたちが殺したのではないか。この写真の弱い姿の人を、あなたたちが長い時間をかけて殺したのだ」と言っていた。


(兄が弱くても両親に見殺しにされた"可哀想な"人だとしても、私にとっては生涯の傷を負わせた性暴力加害者で、死んで欲しい人であることに変わりはない。実家のメンバーの中で兄が真っ先に死ぬというのは、両親と私にとって最も都合のよい展開だろう。)

許さなければという意識の変化

昔、私は「兄のことを許さなければ」という強迫観念を持っていたことがある。それは自分のトラウマを認知する前のことだったので苦痛にしかならなかった。後に兄が私に行った性暴力は「絶対に許さなくていいのだ」という自己肯定に変わり、かのような強迫観念は自分に対する単なる偽善だと思うことにした。だがそれも違う。この夢はその意識の変化を示すものである。

まず始めに兄が不当に虐げられていた人物である可能性を忘れて考えてはいけない。「兄の事を許さなくては」ではなくて、兄が加害のとき子供であったこと、兄にも様々な選択肢があり、その選択如何では私に性暴力をしなかったということをよく知っておく必要がある。

顔貌の印象の変化

私が密かに不安に思っている事のひとつに、もしも子供を産んで、その子供の顔貌が兄に似ていたらどうするだろう?というものがあった。兄と私は血縁なのだから形が似るのは運不運じゃなく、十分にあり得ることだ。その子供が、子供らしさによって乱暴なふるまいを見せたり性的な仕草をしたら、私は平静を保てるだろうか?私は私の母のように『ぐみは女の子でよかった』なんてことを言う人間になりたくないが、「なりたくない」という反発だけでは葛藤が生じたときの負担に打ち勝てないだろうとも感じていた。

だが夢の写真で見た兄は上記の通りである。私のトラウマである兄の顔貌の特徴は、内部のわだかまりや感情を表現する瞬間の形ばかりが誇張されており、もはや遺伝的な形や性別などは殆ど印象にない。
「もしも自分の子供が兄に似たら」という不安は、私が自分が兄の顔貌に読み取ったものの正体を知らないことに起因していた。そこで自分の子供の顔貌や仕草だけに意識を集中させて不安点を上げ連ねるのは、その子に対して公平じゃない。


それにしても苦く思うのは、両親のことだ。この葬式の中で彼らは完全犯罪をしたかのようではないか。

*1:兄の葬式の夢は私の願望であり、実際には兄は存命中・・・のはず。私は実際の兄の姿をもう何年も目にしていない。