犠牲
私は物心ついたときから勧善懲悪やお涙頂戴をありがたがる気風を嫌いだけども、それは物心ついたときから父親の偉大さを説かれつつ陰で実兄に性器をいじくられたりしたため他人の道義心とか自己犠牲とか家族を犠牲にしてまでもヨヨヨ、とかいう精神状態に振り回されることに心底飽き飽きしているからだ。
心底飽き飽きしつつ苦手意識を持っているため逆にお涙頂戴の輪の中に囚われ易かったりもするが、私事はともかく重要なのは望まぬ者が勝手に犠牲者の中に組み込まれる構図であるかどうかだ。
忠臣蔵なども「自己犠牲を望まぬ者は抜けていい」という選択肢あっての勧善懲悪であろうが、それらを「ありがたがり」「広く語る」心理の中には足抜けするものを認めない拘束を感じる。
いま、山崎豊子の「沈まぬ太陽」を読んでみている。アフリカ編を読み終わったところだが、会社組織の悪に立ち向かう主人公が家族に持つ心情を美化しているように感じ気持ちが悪かった。この先物語はバッドエンドのプロジェクトXになるのかな。