仲裁の欲求の次

昨日の題【子供のころは家庭内の様々な問題を仲裁したかった】、何気に浮かんだ言葉だが後を引き続けそうだ。子供の頃の仲裁してえー!欲求というのはただただ自分が安心できる家庭が欲しいからで、幼い欲求だったと思う。「無垢な子供の純粋な希望」とか小奇麗に言っている場合じゃない、この願いには自分になら仲裁できるという傲慢さも含まれているし。ついでに言うと世に言うインナーチャイルドというのもやはり小奇麗な存在ではなくてそれ相応に破廉恥な代物であり*1、そのインナーチャイルドさんが持つ(本当は、『持っていたであろう』)欲求のもとに大人の自我を動かそうとするのは、自己内の子供人格に対する依存・搾取に見える。自給自足ながらもどこか笑えない。

いまじゃもう両親と兄で憎み会おうが愛し合おうが殺し合おうがひたすらどうでもいいことに思えるし、むしろ彼らにはそうして向かい合っていて欲しいと思う。ところでそのメンバーに私は含まれているのか?目の前が真っ暗になるようだが、含まれているだろう。

*1:破廉恥であること自体には息抜きや成長の手段があるので危険とは思わなかったけど調べたら「破廉恥罪」って言葉があるんですね、程度の問題なんだ