人の死を願うのこと

  • 私は加害者の死を願っている。とはいえ、よりによって兄や両親のために犯罪者になるつもりはない。

犯罪者といえば、犯罪を犯したりそれを補助したのは兄や両親のほうだが、それを公的に裁くのは困難だ。公的な裁きを速やかに行えるのならば、彼らの死など望んだりはしない。

  • 私は加害者の死を願っているが、それは憎しみからの殺意ではない。加害者に、「被害者と同等の苦痛」は望まない。

気持ちの点から言えば、「早く終わらせたいだけ」だ。かつての私への暴力が、いまだ同じ形で実家には存在しているのだ。いまだに暴力にとらわれている彼らは、もう暴力を手放す力はないのだろう。だから第三の被害者が出たりする前に早く終わらせたいが、私がそれを行うのは困難だ。

  • 彼らの死を意識しないということは、私が自我を捨てることと同意だ。

私が、「生きてもいい」と感じることができたのは過去の犯罪行為に従順でなくなったときからだ。彼らは直接・間接に私の自我を殺し続けた。それを認めたり許したりすることは、世界中で私だけは、する必要がない。ハッキリ言うと、「両親以外の誰かが兄を庇っても同情してもかまわないが、私だけは兄を人間だと思わない。私は両親のことを人間だとは思うが、私は両親に同情はしないし、庇いもしない。」(私だけというのは、第三の被害者が出ない限り。実は今それが一番心配というか、恐怖なんだけど・・・)



おそらく私に限らず、家庭内のように証拠を挙げることができない状況で犯罪行為をされたものは、自分で裁くという厄介な仕事を背負わなくてならなくなる。自分で裁き、しかも刑の執行はできない。(しちゃう人もいるけど。そうしたら犯罪者になるけど。)で、刑の欲求(私の場合は、殺意)はちゃっかり残り、それも背負わなくてはならなくなる。いずれも、自分ひとりで。仲間がいても協力者がいても、自分で裁かなければならない者はひとりだ。
ちなみにこれらの仕事や重荷は、とても体に悪い。私の場合は加害者と離れることなしにはとてもできなかった。まずは、加害者の影響下に身をおかないこと。
また、加害者への強い否定が自我の核にあるというのは、とても危険なことだと思う。否定の力と同じ強い力で、何かに依存しやすい。穢れとか業とか運命とかヒロイックなものなどの情動へ流されやすい。自我の肯定のためにその危険を冒していることを忘れない。